SOUTIENCOL 三浦が『洒落物研究』と題し、『後世に残したい語るべきこと』を徹底的に語り尽くす不定期連載。デザイナーとして30年にわたり一線で活躍してきた経験の”一方的なアウトプット”や様々な感性と結びつき”コンフリクトを生み出す”プロジェクトである。
第6回目は夏のIVY定番インディアマドラスチェック。インドには2回の渡航歴がある。マドラスチェックをこよなく愛する三浦が、以前にたどった道を思い出しながら、その当時のエピソードと最新のマドラスコレクションまでを語る。
profile ”Toshihiko Miura”
Instagram:@soutiencol.white
大阪生まれ。現在75歳で現役続行中のデザイナー。音楽一家の末っ子として生まれ、バイオリンやエレキギターを弾く洒落者の家族から多大な影響を受けて育つ。
10代の頃は新宿や心斎橋のジャズ喫茶、ディスコで遊び、みゆき族をやるなど、まさしく”勉強嫌いの遊び人”。20代でVAN 石津謙介に出会い”生き方”を学ぶ。ファッションのイロハ、TPO、プロダクトに対する徹底的なこだわりの精神。現在のSOUTIENCOLに通じる”職人気質”を学んだ。
1992年 SOUTIENCOLを創業。”普遍的なプロダクト”と”遊び心”を加えたトラディショナルブランドとして全国のセレクトショップから支持を受ける。
MADRAS紀行
ある時期、テキスタイルのデザインを頼まれることが度々あった。パリのプルミエールビジョンにも、イタリアのメーカーとコラボしたテキスタイルデザインを出展したことがある。そんな折、1981年のこと。縁あってインドのMADRASでのテキスタイルデザインの仕事を請け負った。1週間出張していた当時の写真が出てきた。
MADRASとは現在のインドのCHENNAI(チェンナイ)のことだ。イギリスの植民地時代より、長くマドラスと呼ばれていたが、1996年に改称。そこでしか織られていない綿のシャツ生地の柄をMADRAS Checksという。
独特の風合いを持ったこの生地は、5,60年前は草木で染められていた。色落ちが激しく、模様が滲んでしまうことがあった(「泣き」と呼ばれる)が、それもまた良い味があった。チェック柄の特にヨコ方向が不揃いで、河原で乾かすので砂が混ざっており、粗野な竹の棒に巻かれていた。
日本の縫製工場からは、よく柄合わせのクレームや生地の裁断に困った話が寄せられた。工場泣かせの生地だった。
ギットマンブラザースのMADRASを着ていた三浦は、以前からMADRAS Checksを愛用。当時もアメリカのカジュアルシャツはマドラスが多く、とりわけラルフローレンを多く見かけた。
当時のMADRASの街並みは、混沌としていた。困窮した人々が多く道端のバラックで生活していた。舗装されていない道は、家畜の牛や野良犬、それに人間で溢れかえっていた。
カースト制度がまだ色濃く残る国。そんな街中を縫うように車を走らせ、工場に出向いた。たどり付けたというのが本音。
そんな中で強烈に印象に残っているのは、訪ねたプリント工場だった。
たまたまその時、日本のヨーガンレールの更紗プリントをハンドプリントする作業が行われていた。
玄関の軒先屋根の下で地べたに座りながら、黙々と木版を手彫りする人。プリントを定着させる接着剤のニカワをこねる人。コンクリートブロックの中で櫂を巧みに操り藍をこねる人。こんな職人が作るBATICやMADRAS Checksが今も残っている。
特別なMADRAS 墨汁コーティング
インド伝統のマドラスチェックをベースに、両面を墨汁でコーティングした後に原反で洗いをかけヴィンテージ感を与えた。
習字に用いられる墨汁から、紙がぱりぱりになる成分を除去したものを使用している。
類似の加工方法としては顔料を使用したコーティングテクニックがあるが、墨汁の粒子は顔料より細かく、洗いをかけた時に顔料と比べ徐々に落ちていく傾向がある。そのためじっくりとした経年変化を楽しむことができる。
コーティングは広島、洗いは岡山といずれも日本を代表するテキスタイル産地で加工している。
ボタンもアップデート
マドラスには、白い高瀬貝ボタンが通常多かったが、あえて今回は高瀬貝ではなくSHELL HORNと名のついたイタリア製の洗練されたボタンを使っている。
名の通り貝殻のような光沢と風合、それと水牛の角のような気品ある文様。
従来の貝にはないお洒落感が、大人っぽさをバージョンアップ。
今夏に向けて
いかがだっただろうか。現在Online Shopでは、パッチワークマドラスのジャケット/シャツ/ベストを取り扱っている。また、2023夏にはさらにマドラスチェックのシャツが多数展開されるされる予定。乞うご期待。